世田谷見聞録

上町駅・駅


上町駅

世田谷線駅
○ 駅名の由来:世田谷町の上町に当たる位置
● 観光スポット:ボロ市(楽市楽座の伝統がボロ市として残る)、代官大場家の屋敷跡、天祖神社、世田谷城址公園



お薦めスポット

ボロ市:世田谷区指定無形民俗文化財

世田谷見聞録 世田谷八幡宮
ボロ市

世田谷区世田谷一丁目・弦巻五丁目 ボロ市通り・世田谷通り(一部)・駒沢公園通り(一部) 世田谷区世田谷一丁目二十三番五号 世田谷のボロ市は、天正六年(1578)に小田原城主北条氏政が世田谷新宿に宛てて発した「楽市掟書」に起源を持つとされる。掟書によると、この楽市は一と六の日の、一ヶ月に六日開かれる六斎市であった。しかし江戸時代になると江戸商業圏の拡大により、市は年に一回、十二月十五日の歳の市となった。市で売買された品は多彩で、歳の市といっても単に正月を迎える準備のためだけではなく、一年を通して必要とする様々な品物をそろえる場であり、生活や農業生産の上で欠かせない市であった。 この市は、明治六年(1873)の太陽暦の採用によって、翌七年から旧暦の歳の市に相当する一月十五日にも開かれるようになり、また明治中期には十六日も開催の定例となった。市の名称は、正式には「市町」といったが、明治中期頃から「ボロ市」が一般的となった。これは草鞋の補強や野良着を繕うためのぼろや、古着などが市商品の大半を占めるようになったからである。ボロ市は四〇〇年以上にわたり、それぞれの時代に対応し、様々な変化をしながらも、ほぼ同じ場所で継続して開かれてきた。戦後は急激な都市化と生活の変化によって扱われる商品も変わり、ボロ市も農村の生活市ではなくなってしまった。しかし、今でもボロ市は、数少なくなった正月を迎える節季意識を伝える行事として、多くの人々に親しまれている。 (世田谷区教育委員会) ・開催日:毎年12月15・16日 1月15・16日 ・開催時間:午前9時~午後9時 ・出店品目:農機具・古着・洋服・植木・骨董品・食料品・玩具など


代官屋敷跡:都史跡:世田谷代官屋敷

世田谷見聞録 代官屋敷跡:都史跡:世田谷代官屋敷
代官屋敷跡:都史跡:世田谷代官屋敷

所在地 世田谷区世田谷一丁目二九番一八号 指定 昭和三十四年二月二十一日 江戸時代の初め、大場氏は彦根井伊家領世田谷(二千三百石余)の代官職を務め、明治維新に至るまで世襲した。この屋敷は江戸中期の建築であるが、母屋は約七十坪(約二三一・四平方メートル)、萱葺き、寄棟造りで、萱葺きの表門とともに、旧時の遺構をとどめ、関東地方における代官屋敷としての規模をよく保存している。なお、この屋敷に収蔵されている古文書類一、五〇〇余点は、昭和二十七年十一月三日に都重宝として指定されている。 (世田谷区教育委員会)


天祖神社

世田谷見聞録 天祖神社
天祖神社

天祖神社はボロ市通りから奥に入ったところにあり、毎年ボロ市の開催中には隣の世田谷信用金庫とともに本部が設置され、境内付近で植木市や代官餅の販売が行われるボロ市の中心地となっています。『がんばれぼくらの世田谷線』さんより


世田谷城址公園

世田谷見聞録 世田谷城址公園
世田谷城址公園

世田谷城は武蔵野台地の一角、南東に張り出した舌状台地の先端部に立地し、西・南・東の三面に烏山川が蛇行し、北には小支谷が入る。14世紀後半に吉良治家が居住したのに始まると伝える。吉良氏は清和現時・足利氏の氏族で、世田谷吉良氏はその庶流にあたる。はじめ鎌倉公方に仕え、15世紀後半に関東が乱れると関東管領・上杉氏やその家宰・太田道灌に与力し、16世紀には北条氏と結んだ。北条氏と上杉氏との勢力争いで、享禄3年(1530)には世田谷城は攻略されたと伝えるが、のち吉良氏の手に復した。この間、吉良氏は北条氏と婚姻関係を結び、その庇護下にあったが、天正18年(1590)、豊臣氏の小田原攻略により、世田谷城も廃城となった。世田谷城の濠・土塁の構造は天文6年(1537)の再築とされる深大寺城のそれと類似しており、16世紀前半に防御の為、大改築がなされた事が窺える。 「平成14年11月 世田谷教育委員会より」


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