世田谷見聞録

私の世田谷

私の育った世田谷を紹介します

世田谷見聞録 代官屋敷

私と世田谷 小田急線の祖師ヶ谷大蔵から下北沢、世田谷線の下高井戸から三軒茶屋を対角線とした一帯が私の世田谷です。 私は小学校から大学まで世田谷区にある学校へ通いました。盛岡市に3年、横濱の10年とそれぞれ暮らしましたが、今はまた世田谷に住んでいます。その後、八王子に引越しました。


地名の由来

■ 世田谷区の誕生(『わたしたちの世田谷』世田谷区教育委員会より)

1868年(明治元)、江戸は東京と改まり、翌年、都も京都から東京へ遷(うつ)されました。 明治新政府は、近代国家をつくるため次々と古い制度を改め、新しい政治をすすめていきました。 江戸の末期、世田谷地域は42の村々に分かれていました。その支配は天領・旗本領・大名領(彦根藩井伊領)・寺社領の4つに組み込まれていました。1871年(明治4)の廃藩置県で、多くの村は東京府に属すことになりました。その後、1888年(明治21)に公布された「町村制」により村々が合併して、世田谷村・駒沢村・玉川村・松沢村(東京府荏原郡)、千歳村・砧村(神奈川県北多摩郡→のちに東京府編入)が誕生しました。

関東大震災の復興と鉄道の開通により、東京西部の近郊農村であった世田谷地域の住宅地化が進展していきます。住宅地化・市街地化の波が広がるにつれて、区画整理や耕地整理事業が各地で行われました。
この時期の代表的な宅地開発としては、玉川全円耕地整理事業、成城学園周辺のまちづくり、下町の寺院が22ヶ寺も移転してきた烏山寺町、台東区の下谷から焼け出された人々が定住した下の谷商店街(太子堂)などがあげられます。
1932年(昭和7)、東京市の区域が拡張され、世田谷も東京市に所属、世田谷町・駒沢町・玉川村・松沢村の2町2村で「世田谷区」が誕生しました。さらに、1936年(昭和11)には千歳・砧村の2村が世田谷区に編入され、現在の世田谷区の区域が成立しました。


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