世田谷の歴史

 世田谷の歴史を紹介

 世田谷の歴史 (『世田谷区立郷土資料館より抜粋)


 世田谷について

世田谷区は、都内でも有数の遺跡密集地であり、その分布は、区内のほぼ全域に及んでいます。時代的には約3万年前の石器製作跡から近世の大名陣屋にいたるまで、ほぼ全時代を網羅しています。特に水利に恵まれた多摩川沿いの国分寺崖線上は、居住するのに適していたとみえ、多くの遺跡が確認されています。 世田谷の代表遺跡・遺構としては、廻沢北遺跡・下山遺跡・嘉留多遺跡の石器製作跡(旧石器時代)、稲荷丸北遺跡・瀬田遺跡の貝塚(縄文時代)、堂ヶ谷戸遺跡の環濠集落(弥生時代)、野毛大塚古墳・御岳山古墳・喜多見稲荷塚古墳(古墳時代)、下山遺跡の横穴墓・火葬墓(奈良・平安時代)、世田谷城址、奥沢城址(室町時代)、喜多見氏陣屋跡(江戸時代)などがあげられます。

世田谷区の遺跡

(『わたしたちの世田谷』世田谷区教育委員会より)
世田谷区は、都内でも有数の遺跡密集地であり、その分布は、区内のほぼ全域に及んでいます。時代的には約3万年前の石器製作跡から近世の大名陣屋にいたるまで、ほぼ全時代を網羅しています。特に水利に恵まれた多摩川沿いの国分寺崖線上は、居住するのに適していたとみえ、多くの遺跡が確認されています。 世田谷の代表遺跡・遺構としては、廻沢北遺跡・下山遺跡・嘉留多遺跡の石器製作跡(旧石器時代)、稲荷丸北遺跡・瀬田遺跡の貝塚(縄文時代)、堂ヶ谷戸遺跡の環濠集落(弥生時代)、野毛大塚古墳・御岳山古墳・喜多見稲荷塚古墳(古墳時代)、下山遺跡の横穴墓・火葬墓(奈良・平安時代)、世田谷城址、奥沢城址(室町時代)、喜多見氏陣屋跡(江戸時代)などがあげられます。

江戸氏と木田見郷

武蔵国木田見郷(現世田谷区喜多見一帯)が鎌倉時代より江戸氏の領地であったことは、「熊谷家文書」などの文献により明らかになっています。「関東一の大福長者」と呼ばれた江戸太郎重長の次男・江戸武重(氏重)は木田見郷をその本拠とし、木田見次郎武重と名乗ったと伝えられています。 有名な熊谷(くまがい)直実(なおざね)の家に代々伝わる「熊谷家文書」には、この木田見武重の子孫たちが木田見郷の領地をめぐって熊谷氏との間に起こした訴訟一件文書が含まれています。その初見は文永11年(1274)のものであり、これが世田谷区域内における土地領有関係を示す最も古い文書となっています。 江戸時代に、2万石の大名にまでなった喜多見氏は、江戸重長の嫡子・忠重から連なる家系で、本来、木田見氏とは別の家でしたが、江戸右京亮(うきょうのすけ)康重(嘉吉の頃の人)の代に至って、木田見の家を継ぎ、江戸庄(現皇居一帯)より喜多見の地へ移住したものと考えられます。

世田谷吉良氏

吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、三河国幡豆郡吉良庄より起こりました。世田谷吉良氏はその庶流で、足利義継を祖とし、その子・経氏の時、吉良姓を名乗ったと伝えられます。経氏の孫・貞家は建武政権・室町幕府の要職を歴任した後、奥州探題となって陸奥国に下向し、勢力を拡大しました。しかし、3代将軍・足利義満の治世に至って、奥羽両国が鎌倉府の管轄におかれるなどの事情により、奥州からの撤退を余儀なくされた吉良治家は、足利将軍家の「御一家」として鎌倉公方に仕えることになりました。治家の時代以降、世田谷と蒔田(現横浜市)にその本拠を置いたので蒔田殿(まいたどの)と称せられるようになりました。吉良氏が世田谷城を構築した時期については全く不明ですが、治家の鎌倉鶴岡八幡宮に宛てた寄進状から、永和2年(1376)の段階で、既に吉良氏の領地が世田谷郷内にあったことがわかっています。

後北条氏と吉良氏

北条早雲が小田原に城を構えて以来、関八州に絶大な勢力を誇っていた後北条氏は、世田谷吉良氏が将軍家足利氏の一族であることを重視し、これを滅ぼすことなく平和的に懐柔しようと考えました。北条家2代当主・氏綱は、今川貞基のもとへ嫁いでいた娘・さき姫を離縁させ、吉良頼康の夫人としました。頼康に実子があったことは、『快元(かいげん)僧都記(そうずき)』や「旧泉沢寺蔵阿弥陀仏像札銘」などから明らかですが、成人しなかったためか、その世継ぎには、さき姫とその前夫・今川貞基との間にできた氏朝を迎えました。また、氏朝のもとにも、前代に続き、北条家の娘(鶴松院(かくしょういん))が嫁いでいます。

世田谷新宿と楽市(ボロ市)のはじまり

後北条氏は、領土の拡張に伴って、要所々々に支城を配置し、その領国体制を固めていきました。そのなかでも、特に重要な拠点であった江戸と小机(現横浜市)を結ぶ位置にある吉良氏の本拠地・世田谷は、後北条氏の注目することとなったのでしょう。後北条氏4代の当主・氏政は天正6年(1578)、世田谷に新たな宿場(世田谷新宿)を設けるとともに、ここに楽市を開き、矢倉沢往還の整備につとめました。その目的は、軍事・政治上必要な伝馬の確保にあり、そのためには宿場の繁栄が必要不可欠でありました。こうして、世田谷の楽市が開かれたのです。この時、後北条氏によって開かれた楽市は、そのかたちを変えながらも、今もボロ市として存続しています。

家康の関東入国

天正18年(1590)、豊臣秀吉と敵対していた後北条氏が小田原征伐によって滅ぼされると、後北条氏と強いつながりを持っていた世田谷城主・吉良氏朝は、下総国(しもうさのくに)生実(おゆみ)(現千葉市)に逃れることを余儀なくされました。また、当時、吉良・後北条両家に仕えていた江戸氏の末裔・江戸勝重(後、勝忠)も小田原城に立て篭もり、秀吉の軍勢と戦いましたが、落城の後、先祖伝来の地・喜多見に潜伏することになりました。 一方、後北条氏に代わって関東に入国した徳川家康は、戦役の後、関東各地に潜居していた旧家・名族の者たちを家臣に取り立て、その優遇策を計りました。吉良氏朝の子・頼久は、天正19年(1591)、上総国長柄郡寺崎村に1125石の領地を与えられ、江戸勝重も、文禄元年(1592)に、旧領・喜多見村500石を安堵されています。家康の家臣となった頼久は、吉良姓を名乗ることをやめ、蒔田と改姓しましたが、3代後の義俊に至って、吉良姓に復しました。また、江戸勝重も、家康の新しい居城の地・江戸をその姓とすることを憚って喜多見と改姓しました。その後、喜多見氏は代々江戸幕府の要職につき、ついには2万石の大名となりましたが、元禄2年(1689)、刃傷事件により御家断絶となっています。

近世の村落支配

家康が関東に入国すると、世田谷のほとんどの村がその直轄領となり、代官・松風助右衛門の支配下に置かれました。私領としては、喜多見氏・藤川氏らの旗本7人が、喜多見村・深沢村・経堂在家村など都合9ヵ村に給地を与えられたにすぎませんでした。 寛永年間(1624〜1642)に入ると、大幅な領主替えが行われ、天領15ヵ村(後20ヵ村)が井伊家の江戸屋敷賄料(まかないりょう)として、彦根藩領に組み込まれたのをはじめ、14ヵ村が旗本領に、1ヵ村が増上寺領に替わりました。その間、村々においては新田畑の開発が進み、飛躍的に生産力が増しました。元禄8年(1695)には、増大した生産高を把握するために検地が施行され、村高(公定生産高)が確定しました。元禄期は近世村落の支配体制が完成した時期であり、この時確定した村高は明治維新まで変更されることはありませんでした。

幕末の動乱と世田谷

安政5年(1858)、大老職に就任した井伊(いい)直弼(なおすけ)は日米修好通商条約の調印を断行し、それまで宙に浮いていた将軍継嗣問題に決着をつけました。さらに直弼は、自らの独断専行に猛然と反発する反対派の一掃を計って「安政の大獄」を強行しましたが、万延元年(1860)3月3日、激高した水戸浪士らが、江戸城桜田門外において直弼を暗殺しました(桜田門外の変)。領主・井伊直弼の暗殺事件は、世田谷領20ヵ村の人々をも震撼させる一大事件でした。 安政6年(1859)貿易が開始され外国使臣や貿易商が続々来日しますと、攘夷思想を持った武士たちによる外国人殺傷事件が頻発しました。なかでも文久2年(1862)に起きた生麦事件は、大きな波紋を投げかけました。賠償金を要求してイギリス艦隊が横浜港で示威行動を起こすと、たちまち、そのうわさが江戸市中に流れ、動揺した市民は親戚縁者を頼って家財道具の疎開を始めることになりました。当時江戸郊外の農村地帯であった世田谷は格好の疎開先となったのです。

明治期における区域の沿革

明治2年の東京府の開設、名主制度の廃止、そして明治4年の廃藩置県断行などの維新改革が行われた明治の初め、世田谷は品川県や彦根県(旧井伊領、後に一時長浜県とも呼ばれる)に分かれ、また東京府や神奈川県に分かれるなど、目まぐるしく所属や区域が変わりました。明治11年には東京府に市街地の15区と周辺の6郡が置かれ、世田谷の中東部は荏原郡に、千歳・砧村は、神奈川県北多摩郡に属しました。さらに、東京市の誕生した明治22年には、町村制の施行により、東京府の4ヵ村(世田谷・駒沢・松沢・玉川)と神奈川県の2ヶ村(千歳・砧)に分かれました。 明治4年正月20日、斎藤寛斎の発願で、品川県五番組に組合村立の郷学所が開校しました。同年4月3日には、太子堂円泉寺の大山道沿いの持地に校舎が完成し、同23日、太子堂郷学所と改称しました。6月2日には幼童学所と改称し、翌7年正月、第二中学区四番小学荏原小学校と命名され、公立学校として認められました(現若林小学校)。 日清戦争後、経済界の活況によって東京の市区改正事業を始めとする土木・建築事業が大いに進捗しました。洋式建築や土木事業の進行は、資材としての砂利の需要を高めました。そして多摩川の砂利の供給のために鉄道の敷設が計画されたのです。こうしたなか、玉川電車(渋谷〜玉川)が明治40年に開通しました。

世田谷区誕生

大正から昭和初期には京王線・小田急線・大井町線・井の頭線などが開通しました。大正12年9月、関東大震災が発生すると被害を受けた下町の人々は地価が安く交通の便のよい近郊へ移住し、世田谷も急激に人口が増え、電車の沿線は住宅地に変貌しました。烏山には、この年から昭和4年にかけて都心で被災した寺が22ヶ寺も移転してきて、寺町を形成しています。この頃、玉川村全域で住民の手により大規模な耕地整理(玉川全円耕地整理事業)が行われていますが、住宅化への先取り事業として特記すべきことです。
昭和7年10月1日東京市の区域が拡張され、世田谷も東京市に所属し世田谷町・駒沢町・玉川村・松沢村の2町2村で「世田谷区」が成立誕生しました。さらに、昭和11年10月には北多摩郡であった千歳・砧村の2ヵ村が世田谷区に編入され、世田谷区はこのとき人口21万701人、面積は現在の大きさの58.08km2となりました。
第2次世界大戦の終わり頃の世田谷も、空襲に遭い被害を受けましたが、戦後から昭和40年代には都心からの移住や高度成長期の首都圏への人口集中化などにより、農村地区から一挙に都内有数の住宅地区となりました。 しかし、近郊農村としての世田谷は、戦後の急速な人口増や近代化によって80万区民の住む住宅都市となりましたが、緑や歴史的遺産の消失など新たな都市問題が生じています。